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ヨーゼフの眼鏡
日比野純一がアレコレ気侭に綴ります
出稼ぎビルマ人の情報支援ツール − タイ、インドネシアの被災地を訪ねる(その4)−
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モガン民族の村から車で30分走ると、バンナムキム村のコミュニティセンターがある。銀行という看板がかけられ、建物の中に入ると、コミュニティラジオのスタジオやインターネットが無料で使えるパソコンコーナー、それに村人が作った工芸品の販売スペースもある。

バンナムキム村コミュニティセンターは、津波の後にタイの財団やNGO、それに外国の政府の支援で設立され、村人を対象にした低金利の無担保融資(マイクロクレジット)、住宅供給、そしてコミュニティラジオなどによるコミュニケーション促進といった復興のまちづくり活動を行っている。ここでは現在18人のスタッフが働いていて、みな忙しそうにしている。コーディネーターのミトリさんは「津波の前まではただの村人だったけど、今は村人達の役に立てるこのセンターで働くことができてとても誇りに思う」と仕事が楽しげだ。

このセンターのマイクロクレジットは、タイの財団による600万バースの寄付を基金にして利子5%で住宅再建などの生活復興に限った資金を村人に融資しているDonationという仕組みと、村人1000人がメンバーになって毎月100バースを積み立てていくCommunity Saving Fondという仕組みの二つがある。Community Saving Fondの利子は10%とやや高いが、1000人のメンバーは皆で貯めた200万バーツの基金から比較的目的を自由に融資が受けられる。このマイクロクレジット事業は、津波から2年間はタイの財団の支援を受けていたが、現在は自立運営し、利子収入はコミュニティセンター全体の収入の10%に達している。

住宅供給プロジェクトは、タイのNGOとデンマーク政府の支援により、津波で破壊された村人の住宅再建に取り組んでいる。

コミュニティラジオは、コミュニティセンターの一つの活動として津波の後に始め、当時はデマや噂が絶えなくて、それを解消していくのにラジオを活用していくことが最も効果的であったという。そして午前中に訪問したパンガ町のコミュニティラジオ局と同様に、ここでもタイのNGOがビルマ語の放送をしている。

タイ南部のアンダマン海に沿った地域には多くのミャンマーからの移民が住んでいる。Tsunami Action
GroupというNGOの報告では、20万人以上のビルマ人がこの地域に暮らしていて、3万人以上が津波の被害に遭った。その3万人のうち、かなりの人数が密入国者で、彼らは捕まるのを怖れて救援サービスを受けることができなかった。その溝を埋めるために、国内および国際NGOが他の被災者と同様のサービスを彼らに提供していき、その一つが被災者キャンプに設置された緊急ラジオ局(写真)からビルマ語による放送であった。

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津波から2年8ヶ月が経過したバンナムキム村は、リゾートコテージや住宅の建築があちらこちらで進んでいる。そして建築現場で働いている人の多くがビルマ人労働者だ。津波以前は漁業に従事している者が大半だったが、漁業産業が津波で大きな痛手を受けたために雇用の受け皿が減り、今は復興の建築現場で働いている人が多い。ビルマ人居住地域は非常に貧しく、モガン民族同様にタイ人からは差別されている。

津波の後に始まったコミュニティラジオは、FMわぃわぃと同じようにビルマ人のライフラインの一つになっていた。

(つづく)

テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

津波とマイノリティとラジオ − タイ、インドネシアの被災地を訪ねる(その3) −
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2004年12月26日に発生したインド洋津波によりタイ国内で亡くなった人の数は5395人。そのうちタイ人が1972人、外国人が2248人(40カ 国)で、1175人が国籍不明。行方不明者は2817人。南タイのホテル5300室の約4割が被害を受け、20万人の観光産業労働者が仕事に影響を受け た。また5467隻の船が被害を受け、12万人の漁業労働者が仕事に影響を受けた。

観光と漁業が主要産業である南西タイ。8月31日午前中に訪れたパンガ町から車で北に60キロ走ると、津波の被害のもっとも大きかったティンガ町がある。 この町も観光と漁業で成り立っており、プーケットやピピと同様に外国人ツーリストが訪れるリゾートだ。海岸に沿ってたくさんのコテージとリゾートホテルが 建っていたが、その大半が津波で損壊し、いまは再建工事があちこちで進んでいる。

町を南北に貫くメインの道路が海岸から1キロほど内陸を走っているが、そこを走ると、なんと船が丘の手前まで乗り上げ朽ち果てた姿をさらしているのが見えた。津波の被害がいかに恐ろしかったかを物語っている。

この町で最初に訪れのが、海岸に近いタブタワン村。高床式の竹で編んだ住居が建ち並び、人々の暮らしは貧しそうだ。そこは、海のジプシー(*ジプシーは差 別用語だが、ここでは英語表現をそのまま使用する)と呼ばれているモガン民族の村。モガン民族は、インド洋周辺の国々(タイ、ビルマ、バングラ、インド、 スリランカなど)の海岸沿いに暮らす少数民族で独自の生活様式と言語を持っている、いわば海洋民族だ。

タブタワン村の中心に、他の家よりはやや大きい高床式の建物があり、そこが国際NGOの支援で建てられた村の文化センターだ。そこでセンターのマネージャーであるウィンさんという20代の女性が私たちを迎えてくれた。

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彼女が被災したときの様子を語ってくれた。

「モガン族は、先祖からの津波被害の言い伝えがあり、潮が大きく引いたのを村人がみ、て津波が来ると思って村人全員に声を掛けて、みんな丘まで走って逃げ たの。だから被害にあった人はほとんどいなかった。壊れた家の再建など復興は大変だったけど、私たちにとって悪いことばかりではなかった。たくさんのメ ディアがここにやってきて、モガン民族ことを伝えてくれたおかげで、タイの人々が私たちの存在に理解を示すようになってくれた。それまでは、ずっと差別さ れてきたから。」

タイコミュニティラジオ放送連盟のビーチェンさんはティンガ町の避難キャンプ(1000人規模)でこの村人たちに出会い、村にコミュニティラジオを開設することを支援した。外国の財団の協力も得て、村でコミュニティラジオが始まったの津波から一ヵ月後のこと。

ウィンさんがラジオの役割について話してくれた。

「ラジオ放送するようになった何がよかったって、それはみんなが自信をもって自分達を表現できるようになったこと。それまではモガン民族であることを誇り に思えなかったから。そして次は教育番組をすることで子ども達の教育レベルが少しずつ上がってきたこと。ラジオ番組を通してモガン民族以外の人たちとも交 流を持てるようになったこともとてもよかった。」

タブタワンという村の名前がつけられたモガン民族のコミュニティラジオ局は、モガン語、タイ語、ティンガ地方語、そして教育用英語の多言語放送で、スタッ フはウィンさんを含め3名の女性スタッフと番組ごとにタブタワン村だけでなく他の村人が参加。津波の後の救援活動ラジオとして一年間の期限付きの放送だっ だったので、2006年3月で放送を終えて借りていた機材を返却したが、村の人たちがコミュニティラジオの必要性を感じ、国際NGOのセーブザチルドレン の支援により新しい放送機材を購入し、ちょうど私たちが訪問した翌日(9/1)から放送を再開するところだった。

日本ではおよそスタジオとは思えない高床式の竹で編んだ建物の一室に、明日からの放送に備えて送信機とアンテナ、音響機材が用意さていた。「スタジオ」の 隣の部屋には、太鼓などの楽器や絵画用具が置かれており、壁にはタイ語で子どもたちが描いた絵が貼ってある。モガン民族の子ども達が民族音楽などのモガン 文化の表現活動をしているのだ。

まさにここは、たかとりコミュニティセンターのFMわぃわぃでり、RE:C(多文化な子ども達による表現活動プロジェクト)と同じ役割を果たしているコミュニティセンターだ。

津波から2年半が過ぎた南西タイの海岸沿いの田舎町で、マイノリティのエンパワーメントと民族を超えた交流が、コミュニティラジオの持つ大きな役割の一つであることを改めて実感することができた。

(つづく)


テーマ:日々のつれづれ - ジャンル:日記

インド洋沖津波の復興ラジオ局−タイ、インドネシアの被災地を訪れる(その2)−
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タイ2日目の8月31日は、バンコクからノックエアという新しい航空会社の飛行機に乗り午前10時半前にプーケット空港に着きました。タイには学生時代から数えて5回以上も来ているのですが、プーケットをはじめ南タイを訪れるのは今回が初めてです。

バンコクから向かったのは、今回のタイ視察全般のアレンジをしてくれたスラチャイ(報告その1参照)と、タイのコミュニティラジオ放送連盟会長のビーチェ ン・クッタワスさんと私の三人。プーケット空港には、タイ・コミュニティラジオ放送連盟の南タイ地域コーディネーターのスリポル・サジャッパンさんとアシ スタントのメオさんが私たち三人を迎えてくれました。

タイ南部はコミュニティラジ オの活動が活発な地域で、2004年12月の津波被害の前には15局が放送をしていて、津波の被災地支援を経て現在はその数が30局に増えています。スラ チャイさんはその理由として、(1)タイの主流文化と違うイスラム文化が根付いていること(2)津波被害と支援活動(3)コーディネーターのスリポルさん の存在−の三つの要素をあげています。

空港から最初に向かったのは、プーケットから北に60キロのパンガという小さな町。海岸沿いの道路を走る車の窓から見えるアンダマン海は見とれるほど美し くて、津波がこの町を襲ったことなどまるで嘘のようです。町の外れにある公設の地域コミュニティセンターの中にある、「ノイティ」という名前のコミュニ ティラジオ局を訪れると、ちょうど二人の男性が生放送をしている最中でした。

この地域コミュニティセンターから海岸までは約5キロほどの距離があるのですが、センターより少し低地にある近くの村は津波の被害に遭って住宅は全滅をしてしましました。その跡形がセンターから遠くに悲しげに見えました。

ラジオ局は津波の数週後にコミュニティラジオ連盟のビーチェンさんとスリポルさんの協力で設置され、国際ロータリークラブが送信機などの機材を寄付してく れたほかに、地元の仏教寺院からも大きな支援を受けました。緊急時ラジオというよりは救援、復興の役割を担ったラジオ放送です。

現在は、6〜8人のボランティアで放送が続けられていて、放送時間は午前8時から午後6時半まで。地域情報や宗教(仏教)、娯楽などの番組のほかにタイ NGOによるビルマ人労働者向けビルマ語番組もありました。活動を支援している地元企業や商店、農家などのCMも放送していました。

パーソナリティの一人、タムノンさん(63歳)はゴムとパームの生産農家を営んでいて、放送ボランティアを開局以来2年以上続いています。「少し生活にゆとりができたので、コミュニティラジオで地域貢献できるのはとても嬉しい」と活動を続いている動機を語ってくれました。

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パンガ町はタイ人が訪れるリゾートとして知られていましたが、津波の被害以来、観光客はパタっと来なくなり、海岸沿いのレストランはどこも閑古鳥が鳴いて いました。とくに海岸に近くに住んでいる人々は心理的トラウマを抱えていて、そこから離れたいと思っている人が少なくありません。さらに津波で土地や家屋 の契約書を喪失し、その所有を巡って住民同士のトラブルが多発し裁判沙汰になるケースも多々あるそうです。

美しい南タイの海を眺めながら、このコミュニティラジオがパンガ町の津波被害からの復興に貢献できることはどのくらいなのか、考えてしまいました。

海辺のレストランで昼食をとった後、津波でもっとも大きな被害を受けたナムケム町に移動をします。
(つづく)

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タイ、インドネシアの被災地を訪れる(その1)
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8月30日深夜に関空を飛び立ち9月8日までタイとインドネシアを訪ねる旅をしてきました。
今回のタイ訪問は、2004年12月のスマトラ沖大地震およびインド洋津波被害と2006年5月のジャワ中部地震の被災地で、FMわぃわぃと同じように被 災者に災害情報を伝え、コミュニティの再生に取り組んでいるコミュニティラジオ局がいくつかあり、その活動を学ぶとともに、互いの経験をシェアして今後に 活かしていくことが目的です。



30日未明にバンコクに着 き、薄暗い町をタクシーでホテルまで向かいました。バンコクを訪れたのは実に10年ぶり。新しい国際空港や地下鉄、モノレールができるなど都市インフラが かなり整備されたように見えますが、むっとするような気温と湿度、そして特有のの匂いと人々の声が交わる雑踏は相変わらずです。

タイでの視察をアレンジしてくれたのは、スラチャイ・チュプカさん(写真左側)。彼とは昨年11月にヨルダンで開かれたAMARC(世界コミュニティラジ オ放送連盟)世界大会で出会い、「災害とコミュニティラジオ」について深く意見交換をしました。彼はいま、バンコクのラムカムハン大学の講師(メディア 論)をする傍ら、タイのあちこちでコミュニティラジオの立ち上げ支援(トレーニング)ボランティアをしています。もともとは、タイの全国紙 「NATION」の経済担当記者を10年にわたって務めていて、退職後に日本の大学院でコミュニケーションについて学んだそうです。日本に二年ほど暮らし ていたので、日本いついてよく知っているのですが、残念ながら日本語はほとんど話せません。

初日(8/30)は、スラチャイとともにJICAバンコク事務所を訪問し、津波被害の支援をはじめJICAがタイ政府機関と連携しながら展開している防災 プロジェクトについて話を聞かせてもらいました。災害を所管する行政機関は日本と同様にいくつもタイにはあるにもかかわらず、やはり縦割りが徹底されてい て、災害や防災の取り組みもばらばらに行われていて、行政機関が一つのテーブルを囲んで連携していくことをJICAが仲介役になって進めていて、地域社会 レベルでもの成果が少しずつ実っているようでした。

JICAの担当者の話で一番驚いたのは、タイの天気予報が日本に比べて非常に大雑把であること。予報能力はもちろん、マスメディアの報道も大枠でしかなさ れていなくて、県レベルや市町村レベルでの天気情報を住民が得る仕組みが整っていないそうです。日本などは地震が発生すると、テレビにはテロップが流れ、 ラジオもすぐに放送しますが、そんな仕組みは夢物語だそうです。

昼食後にスラチャイとから、タイのコミュニティラジオの概要について詳しく話を聞かせてもらいました。AMARC世界大会で「タイにはコミュニティラジオ 局が2000局以上あるが、どれも無認可。そして2000以上のコミュニティラジオ局のうち本当のコミュニティラジオ局は一割以下」という話は聞いていた のですが、それがいったいどういうことなのか、よく理解できずじまいでしたので。

スラチャイはちょうど、タイのコミュニティラジオについての論文をまとめたところだったので、立て板に水のように話をしてくれました。彼の話をまとめてみます−

タイでコミュニティラジオの活動が始まったのは2001年。なんと、きっかけは日本政府からの支援でした。1997年にIMF危機があり、タイ経済の支援 策としてソーシャルインベストメントファイナンス(SIF)という地域コミュニティを再生する資金が1998年に日本政府からタイ政府に無償供与をされま した。

SIFは、(1)コミュニティ活性化の組織づくり(2)コミュニティでの仕事づくりとコミュニティビジネスの起業支援(3)コミュニケーションの活性化− という三つのプログラムを段階的に進めていくことを目的に、政府が直接的に地域コミュニティに資金助成をする画期的なものでした。2001年に SIFの三つ目のステップ「コミュニケーションの活性化」の一つの先導的プロジェクトとして、一県に最低二局のコミュニティラジオをつくることを見据えた 地域コミュニティへの助成が始まりました。これによって、タイに75の県で最低150のコミュニティラジオ局ができることになり、タイの各地でコミュニ ティラジオの扉が開いていったのです。

しかし、だからといってタイ政府はコミュニティラジオを法制化したわけではなく、先導的プロジェクトという位置づけゆえに、なんと放送を始めたコミュニ ティラジオ局は「コミュニティラジオ学習センター」と名づけられ、ラジオ局ではなくラジオ放送のノウハウを学ぶセンターと位置づけられていたのです。

2002年10月にタイ全土の150の「コミュニティラジオ学習センター」による協会が設立され、政府に対して継続的に放送を続けていくためにコミュニ ティラジオの制度化を要望していきました。その運動の結果、2004年に「コミュニティラジオ学習センター」の放送訓練時間の中の10%はCMを流しても いいようになり、政府は実質的にコミュニティラジオを認めたことになりました。しかし、それが「コミュニティラジオ学習センター」の商業利用(つまり商業 ミニラジオ)への関心を各地で高める結果になり、娯楽やビジネス目的の「コミュニティラジオ」が次々に立ち上がったのです。

2006年末現在で全国に2565の「コミュニティラジオ」があり、そのうち50%が娯楽とビジネス、40%が政治を目的にしていて、本当のコミュニティ ラジオ局といえるのはわずか10%にすぎません。さらに、2006年9月にタクシン首相がクーデターで職を追われ政権が変わったことで。政府から地域コ ミュニティに直接資金が流れる施策はなくなり、コミュニティラジオの10%の「本当のコミュニティラジオ局」の半分近くは活動を継続してしていくことが難 しくなってきています。

このようなタイのコミュニティラジオの歴史の中で、とくに「本当のコミュニティラジオ」の活動が活発なタイ南部が2004年12月に津波被害に見舞われま した。FMわぃわぃの前進のミニラジオと同様の活動が行われたと伝えられてます。明日(8/31)、スラチャイとともにプーケットに飛び、津波の被災地を 訪ねます。

(つづく)

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